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「星を見れる」

 「星を見れる」、なんて素敵な言葉。凡庸な例えしか出来ないけれど、「川を編む」と同じような響きがある。 星を見れる人は羨ましい。生年月日や惑星の動きから見たり、分類されていくらしい。自分は双子座なんだけど、風の星座なんだって。水瓶座や天秤座と同じく。風の星座はコミュニケーションにおいて言葉が重要で、特に自分の双子座は言葉がキーワードらしい。当たってますか? 〜 こんな調子で続いていく。スピリチュアルな文化なので信仰するかどうかは個人の勝手として(自分も普段そういうものにはなかなか触れないし)、未知の世界だからずっと楽しい。知識欲的な脳のくすぐりなのかもしれない。言葉としてすごく興味がある。見えないものに心を重ねる行為も愛らしいと思うし。 言葉も星も、人びとに悠久の歴史を持つ点にロマンがあって、そんなところに思慮する綺麗な時間を確保したっていいじゃない、なんて。 --- 真珠の道を少し進んだ先。階段を上がったところに鰻の寝床みたいな長方形の空間があった。演奏、バーカウンター、食事?といった形で緩やかに連なっている。 謎の食卓、ソファ、腰高だったり座して見る高さだったり。至る所に森林の象徴が生えている。飛び交う言語には笑顔が乗っていてその意味は分からずとも温かくなる。気持ちよさそうに身体を揺らす人たち。「前に出て踊ってもいいですか」、やばい、最高。(笑) ループして重なっていく。音が狭いこの場所に響いて、余白が多分にあって、とにかく伸びやかだった。温かいお茶は終盤には茶葉が沈殿して、くたっと優しい色になっていた。良い体験だった。 自分の場所の認識を保持しつつ、未知のものに首を突っ込んでいくこと。そこから始まる循環を信じていいと気づき始めて、あーあ、なんでこんなに人生遠回りしちゃったんだろうなと少し悔しかった。不可逆なものにいつまで愚痴をしたところで意味はないので、割り切るしかないのだけれども。 その悲哀が味になればいいか。でもそれはメタ的過ぎるね。なにも考えず流れていく。気持ちよく、流れていく。 最近、少し暑くなったね。風の良さに触れるようになったね。

タクシー・ブルース

ルンギンの「タクシー・ブルース」は乾いていて良い。サックスを吹く男が街頭の緑色のスクリーンに映されるシーンはなんてカッコいいんだろう。 主観的でないドラマを撮りたい。自分もその中に居るのならば尚のこと良い。棒読みでいいから現実を逸脱した場所の住人になってみたい。それは今までに経験のないこと。転換や刺激が欲しい。表現という発散が無くなった瞬間に産廃のようになる自覚があるので、何か、何かを延命装置として手にしておきたい。テレビ局のような媒体を立ち上げるのも効果的かもしれない。いや、なんでもいいのかも。伝えたいことはない。それでも吐き出したいことはある。 10年間、聴き続けている音楽がある。病める時も健やかなる時も。誓いの言葉みたいな存在の音楽がある。曲名をなるべく他人に教えたくはない。あまりにも私の生活に馴染んでいるから。もしかすると世界で今も聴いているのは本当に自分ぐらいかもしれない。すごく愛している。このロマンチックな関係を邪魔されたくない!😤 とにかく、そういう規模の話しか自分は出来ないんだよ。

20240408

光線は和らいで木々は微かに揺れる。ベンチに腰掛けて明日と数年後について考える。生殖器がだんだんと溶けているような感覚がある。髄液が漏れ出して代々木公園の池に馴染む。 とにかく春らしい日。いろいろな人が花見の様子を発信していて、愛らしいなと思う。 チュルンやプラスのような終わり方はいつ読んでも惹かれる。そんな気概なんて本当はないくせに? でも、そこにある沈黙の世界は圧倒的で、白とも黒とも言えない色が視界を埋めてくれる。ずっと好きだ。読了し、パタンと本を閉じた時の乾いた音が優しく反響し、遠くに、遠くに消えていく。 暖かい風が眉にかかる前髪を分けて、まずはこの汚い部屋を片付けないとと少し後押ししてくれた。

メモ

「詩の贈与は何ものも根拠として挙げることはない(引用しない=citer)、どんな題名=称号=資格〔titre〕もそれは持たない、もはや歴史=物語という道化芝居を演ずることもなく、きみが予期せぬ時にそれはだしぬけにやって来る。息を断ち切るほどの驚愕を引き起こしつつ、言説めいた、特に文学めかした詩なるものとは切断された所に。あの文学的系譜が焼き尽くされたその灰そのもののなかに。とはいえ不死鳥ではなく、鷲でもなく、とても低い所、実に低い所、地面のすぐ側にいるハリネズミ。崇高でも非身体的でもなく、天使的とは言えるかも知れないが、それもひと時の間のことだ。」 粒子が滑らかに浮遊する気候。出てこない言葉。

上田信 - 死体は誰のものか

 🤯!! 上田信の「死体は誰のものか」を読み始めた。 死体、誰のものだと思いますか? 背より高く伸びた雑草を掻き分けた先に宝物としての死体があったのならば、二人だけの秘密として、それを共有したくなりませんか。そんなシーンを数年前に読んだことがあるけれど、それは少し朧げになってしまったかも。いや、単に浸透した結果かな。当時の自分には新鮮な表現だった。すごく優しい気がした。 インターネットを長年しているとグロテスクな現実の写真に見慣れてしまう。ひー、って心の中で言いながら無表情で閉じるぐらいになってしまう。なんとも寂しいものです。 そうそう、むかし、'水葬の写真'という曲を書いたことがある。'水死体は綺麗だと思う'。今でもそう言えるのかは分からない。でも、いい響きを持っている。自分を褒めてあげたい。 気に入っている節もあるのかも。そんな死生観は変わりたくない。でも、面白そうだし読んでみようかなって。文化論だから心配はさほどしていないけれど。 以前、'どうなるか分からないから不安になりやすい'という理由で、'とにかく生きたい'、ということを言う人がいて、歪だなぁ、と、面白かった。そんなんありなん?、みたいな。佇まいがカラッと乾いていて不思議だった。 誰かの心の機微というものは他人は絶対に掴めないから、自分はやはりそういうものを見るのが好きだなといつまでも思う。裏表ある人には呆れながら安心する。シンパシーってやつなんすかね。知らんけど。